2022年2月25日金曜日

陽光の時の間で

  見舞客と入院患者らが行き交うロビーを右に折れると、そこから先は通い慣れたリハビリルームへ続く一本道に出る。昨夜の雪が薄く敷き詰められた中庭の眩しさに眼を細め、僕は窓越しの景色から目を背けた。息を整え、いつものように歩調と合わせながら頭の中で指折り数える。
 彼女が治療を始めてからの、消え去った月日の意味を。



 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す。細胞の時間を遡行させる新薬は、人類が病に打ち勝つ決定打となった。病に蝕まれた身体は同じ時間を掛けてゆっくりと元の健康な状態まで巻き戻される。不治の病はすでにこの世にはない。
「サイトウさん、こんにちは」
 僕の姿を認めた彼女は、笑みを浮かべゆっくりと頭を下げた。幾分緊張した面持ちに彼女の変化を感じながら、僕も会釈を返す。名字で呼ばれたことに思ったほどのショックは受けなかった。まだ麻痺の残る身体でぎこちないストレッチを再開する彼女。その左手の指輪が消えたときから、そろそろだと覚悟はできていた。
 彼女と知り合ってから今日で三年が経つ。あの頃のことを僕は鮮明に覚えている。納入業者と受付嬢という、運命的な出会いと評するにはいささか雰囲気に乏しいシチュエーションだったことも、彼女に冗談を飛ばせるようになるまで何ヶ月もかかったことも。
 そして、不治の病が彼女の身体を蝕みはじめたのもその出会いの頃だったと、僕は後に知らされることになる。
 出会った頃の彼女を、僕は物静かで近寄りがたい印象として受け止めた。それが単なる人見知りだと判明してから、僕の心は一気に傾いた。とは言え取引先という関係上、あまり強気に出るわけにもいかない。だからと言うわけではないのだろうが、職場を離れた場所で二人一緒に過ごす機会をつくるようになってからも、彼女は僕を名字で呼び続けていた。ようやく下の名前で呼んでくれたのは、知り合ってからちょうど一年、正式にと言うのもおかしな話だけど、交際をスタートさせたその夜のことだった。僕らの距離は急速に縮まった。愛を育み、そして未来を誓い合った。 

 見舞いに来ていた彼女の両親と挨拶を交わし、一人廊下に出る。外の雪に乱反射したガラス越しにも、彼女の動きが明らかに改善されていることが見てとれた。新薬の効果に偽りがなければ、あと半年で彼女は発症前の自分をほぼ取り戻すことになる。それから先は、自宅に戻り通院しながらの治療に切り替えるはずだ。
 この薬には決定的な副作用がある。だが幸いなことに、それによって彼女自身が苦しむことはない。
 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す新薬は、発病から経過したのと同じ時間を掛けてゆっくりと身体を再生させていく。三年マイナス一年イコール二年。彼女にとって今の僕は、出会ってから一年後の僕でしかない。恋人と、それ以前のただの納入業者の狭間で揺れていたあの頃の。そして今日、彼女は僕を名字で呼んだ。一年後には、彼女にとって僕は出会う前の他人になる。
 投薬を開始した日、彼女は僕に抱きついて泣いた。
 投薬から一週間後、彼女は僕の手をしっかり握りしめていた。
 投薬から一ヶ月後、彼女の病状が停滞しつつあると主治医に知らされた。
 投薬から三ヶ月後、彼女の肌色が出会った頃の瑞々しさを取り戻し始めた。
 投薬から半年後、リハビリ中に僕がよろめく身体を支えようとすると、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
 投薬から九ヶ月後、病室で彼女の両親と談笑する僕に対する彼女の目が、戸惑いの色を浮かべていた。それから僕は、彼女の病室に出入りすることをやめた。
 そして投薬から一年後——。
 今日は二人の記念日だった。付き合い始めて一年が経った去年のこの日、僕らは初めてのデートの場所を訪れ、夜は予約したレストランの窓から夜景を見下ろした。密かに用意していたプレゼントの指輪の存在が簡単にばれたのは僕が柄にもなくガチガチに緊張していたせいで、励まされながらプロポーズをするという何とも歯切れの悪い思い出。そんな不器用な思い出は、時を遡ってゆく彼女の体内で行き場を失っている。甘美な日々は数日でどん底に落とされた。隠れていた病が身体の自由を奪い、彼女は新薬治療に未来を求めた。

 リハビリ室から出てきた彼女が僕の方を向いた。とっさに踵を返す僕の背中を彼女が呼び止める。——まだ二人の関係が初々しかった頃の呼び名で。
 僕は一度だけ振り向いた。動揺を悟られまいと掻き上げた左手の視界の隅で、陽光を受けた指輪が一瞬の閃光を放つ。
 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す。細胞の時間を遡行させる新薬は、人類が病に打ち勝つ決定打となった。後悔はしていない。脳も細胞である以上、例外ではないのだ。彼女は輝きを取り戻すにつれ、僕との思い出を失っていく。

 

(早川書房「S-Fマガジン」リーダーズ・ストーリィ【2012年7月号「選評」掲載】 )

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