2022年12月24日土曜日

国営時間旅行機構

 『年末年始を海外で過ごす人の出国ラッシュがピークを迎えております──』

 機内は満席だった。保護シールドのせいで、窓の外は暗闇に包まれている。壁に備え付けられたテレビには、この時期にお馴染みの交通機関の混雑風景が映し出されているが、それはここも変わらない。車内が混雑の喧噪ではなく、張り詰めた緊張感に包まれているように感じるのは、現代人がまだこの乗り物に慣れていないが故のことなのだろう。
「確か五年前でしたかな? ここ百年間で最も記録的な暖冬だったのは」
 ニュース映像に見入っていた初老の男が、溜め息混じりに隣席の青年に話しかけた。青年は俯いたまま小さく応えた。
「いえ、確か三……四年前だったような気が」
「五年前ですよ。実は私、その年まで家電メーカーの営業をしていましてね。これがまた暖房器具が全く売れんのですよ。定年間近だと言うのに業績は散々で上司にはどやされるわ肩身の狭い思いをしたもんです」
「それはタイミングの悪い……」
「辞めるときは定年かリストラか分からないような雰囲気でしたよ」
 青年はふと顔を上げた。寂しげな笑みを浮かべた男と視線を交わし、どちらからともなく目を反らす。
「思い出しました。その年、僕は大学の卒業旅行で友人とツェルマットにスキーに行く予定だったんです。それがあの暖冬でキャンセルになってしまいました」
「貴方もタイミングが悪かったんですね。その前の年なら充分な積雪がありましたからね」
「ええ、諦めました。学生の身分ではタイムトラベルなんて贅沢はできませんから」
 二人はどちらからともなく天井を仰いだ。
 それまでの耳障りなモーターの唸りが止み、アナウンスは機体が無事次の「時の輪」に着地したことを告げる。青年は口を開いた。
「僕は現在スキーのインストラクターをしています。世の中には金に糸目を付けず天然の雪山で滑りたいという方が少なくないんですね。ところが暖冬の年は世界中どこに行っても天然の雪なんてない。だからこうして事前に確認に行く訳なんですが。知ってますか? 昔は万年雪という言葉があったそうですね。祖父母が若い頃にはまだ辞書に載っていた言葉らしいんですが──ああ、ご存知でしたか」

『また、年末年始を過去で過ごす出刻者の数は、航時機が運用されてから過去最大となり──』

 コンテナのような形をした漆黒の機体に列をなす人々の映像に目をやりつつ、青年は続けた。
「まぁ、年によって極端な寒暖の差があるとはいえ、社会生活に支障が出るほどでもなければ許容できますけどね。幸いにも二十三世紀に生きる僕らには航時機がありますから」
「不思議な話ですね……。何でしたかな? 渦巻き状に進んでいる時間の流れがどうとか」
「渦巻きじゃなくて正確にはコイルスプリング状だそうですけどね。現在の航時機は過去数年ぶん、人を乗せて輪を飛び越えるのが精一杯だそうですね。残念ながら暖房器具を氷河期に向けて売り出すことはできない」
 青年に言われ、初老の男は苦笑いを浮かべた。
「私にはさっぱり分かりませんねぇ。行き先が、過去における出発日と同じ月日に限定されるというのも理解し難いが、それ以上に、仮に一年前の世界にバカンスに出掛けて、一週間を過ごして帰ってきたら現在の世界でも一週間経っているというのがどうも納得できんのです。旅行会社も渦巻きが何とか訳の分からないことを言って煙に巻こうとするし」
「コイルスプリングですよ。時間の流れは一巻きで一年。現在の技術では、過去に向かってきっかり垂直に隣の輪に行って戻るしかできないんです。この時期に夏に行きたいとなると、スプリングの裏側まで飛ばなきゃなりませんからね。そんなエネルギーの余裕はまだない。帰りも同じ理屈です」
「早いところ何とかしてもらいたいものですな。夏も冬も、こう毎年交互に暑くなったり寒くなったりではかないませんよ。なにしろ、年寄りには堪えます」
「ええ。昔のような穏やかにメリハリのある季節が巡ってくれば、僕らもこうして高い運賃を支払って航時機に乗り込むこともせずに済むんですけどね」
「まったくです。もっとも、こんなドル箱事業をそう簡単に民営化したりはせんでしょうな」
 いくばくかの静寂の後、到着を告げるメロディが軽やかに機内に響いた。
「……妻を三年前に亡くしましてね。逢える間は顔を見たいと思うんですよ」
 青年は一瞬目を見開き、そして静かに窓の外の景色に老人の肩を送り出す。
『大変長らくお待たせいたしました。間もなく終点、二二一〇年十二月二十五日に到着いたします。この度は、国営時間旅行機構をご利用頂きましてまことにありがとうございました』
 透明性を売り物にした政府が備え付けた「国民一人あたりの借金額」の表示が、ほんの少しだけ減少した。
「Happy Holidays!(良い祝祭日を!)」
 降り立つ乗客の誰からともなく歓声が上がった。シールドが解除された窓の外に、一面の銀世界が広がっている。
Fin

 

早川書房「S-Fマガジン」リーダーズ・ストーリィ【2011年1月号「選評」掲載】

クリスマスシーズンの物語です。楽しんでいただけたら幸いです。

2022年2月25日金曜日

陽光の時の間で

  見舞客と入院患者らが行き交うロビーを右に折れると、そこから先は通い慣れたリハビリルームへ続く一本道に出る。昨夜の雪が薄く敷き詰められた中庭の眩しさに眼を細め、僕は窓越しの景色から目を背けた。息を整え、いつものように歩調と合わせながら頭の中で指折り数える。
 彼女が治療を始めてからの、消え去った月日の意味を。



 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す。細胞の時間を遡行させる新薬は、人類が病に打ち勝つ決定打となった。病に蝕まれた身体は同じ時間を掛けてゆっくりと元の健康な状態まで巻き戻される。不治の病はすでにこの世にはない。
「サイトウさん、こんにちは」
 僕の姿を認めた彼女は、笑みを浮かべゆっくりと頭を下げた。幾分緊張した面持ちに彼女の変化を感じながら、僕も会釈を返す。名字で呼ばれたことに思ったほどのショックは受けなかった。まだ麻痺の残る身体でぎこちないストレッチを再開する彼女。その左手の指輪が消えたときから、そろそろだと覚悟はできていた。
 彼女と知り合ってから今日で三年が経つ。あの頃のことを僕は鮮明に覚えている。納入業者と受付嬢という、運命的な出会いと評するにはいささか雰囲気に乏しいシチュエーションだったことも、彼女に冗談を飛ばせるようになるまで何ヶ月もかかったことも。
 そして、不治の病が彼女の身体を蝕みはじめたのもその出会いの頃だったと、僕は後に知らされることになる。
 出会った頃の彼女を、僕は物静かで近寄りがたい印象として受け止めた。それが単なる人見知りだと判明してから、僕の心は一気に傾いた。とは言え取引先という関係上、あまり強気に出るわけにもいかない。だからと言うわけではないのだろうが、職場を離れた場所で二人一緒に過ごす機会をつくるようになってからも、彼女は僕を名字で呼び続けていた。ようやく下の名前で呼んでくれたのは、知り合ってからちょうど一年、正式にと言うのもおかしな話だけど、交際をスタートさせたその夜のことだった。僕らの距離は急速に縮まった。愛を育み、そして未来を誓い合った。 

 見舞いに来ていた彼女の両親と挨拶を交わし、一人廊下に出る。外の雪に乱反射したガラス越しにも、彼女の動きが明らかに改善されていることが見てとれた。新薬の効果に偽りがなければ、あと半年で彼女は発症前の自分をほぼ取り戻すことになる。それから先は、自宅に戻り通院しながらの治療に切り替えるはずだ。
 この薬には決定的な副作用がある。だが幸いなことに、それによって彼女自身が苦しむことはない。
 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す新薬は、発病から経過したのと同じ時間を掛けてゆっくりと身体を再生させていく。三年マイナス一年イコール二年。彼女にとって今の僕は、出会ってから一年後の僕でしかない。恋人と、それ以前のただの納入業者の狭間で揺れていたあの頃の。そして今日、彼女は僕を名字で呼んだ。一年後には、彼女にとって僕は出会う前の他人になる。
 投薬を開始した日、彼女は僕に抱きついて泣いた。
 投薬から一週間後、彼女は僕の手をしっかり握りしめていた。
 投薬から一ヶ月後、彼女の病状が停滞しつつあると主治医に知らされた。
 投薬から三ヶ月後、彼女の肌色が出会った頃の瑞々しさを取り戻し始めた。
 投薬から半年後、リハビリ中に僕がよろめく身体を支えようとすると、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
 投薬から九ヶ月後、病室で彼女の両親と談笑する僕に対する彼女の目が、戸惑いの色を浮かべていた。それから僕は、彼女の病室に出入りすることをやめた。
 そして投薬から一年後——。
 今日は二人の記念日だった。付き合い始めて一年が経った去年のこの日、僕らは初めてのデートの場所を訪れ、夜は予約したレストランの窓から夜景を見下ろした。密かに用意していたプレゼントの指輪の存在が簡単にばれたのは僕が柄にもなくガチガチに緊張していたせいで、励まされながらプロポーズをするという何とも歯切れの悪い思い出。そんな不器用な思い出は、時を遡ってゆく彼女の体内で行き場を失っている。甘美な日々は数日でどん底に落とされた。隠れていた病が身体の自由を奪い、彼女は新薬治療に未来を求めた。

 リハビリ室から出てきた彼女が僕の方を向いた。とっさに踵を返す僕の背中を彼女が呼び止める。——まだ二人の関係が初々しかった頃の呼び名で。
 僕は一度だけ振り向いた。動揺を悟られまいと掻き上げた左手の視界の隅で、陽光を受けた指輪が一瞬の閃光を放つ。
 発病前の状態まで肉体の時を巻き戻す。細胞の時間を遡行させる新薬は、人類が病に打ち勝つ決定打となった。後悔はしていない。脳も細胞である以上、例外ではないのだ。彼女は輝きを取り戻すにつれ、僕との思い出を失っていく。

 

(早川書房「S-Fマガジン」リーダーズ・ストーリィ【2012年7月号「選評」掲載】 )

2022年1月30日日曜日

生存報告

 ご無沙汰しております。

すっかり放置状態でしたが、ぼちぼち再開していきたいと思います。